今回はフィルム・コミッションに関する話題。往年の銀幕の大スター鶴田浩二、その人です。その人気は、かの美空ひばりと二分したほどすごいものでした。
先般、函館市に在住する年配の男性から当ビューローに電話がありました。「鶴田浩二のことで知りたい」ということで、小生が受けることになりました。「鶴田浩二の子孫の方が浜松でホテル、旅館をやっていると思うのですが」とのこと。ひとしきり知っていることをお話しましたが、当の御仁もそのへんは知っているようす。少し調べさせてくださいということに…。
多くの資料には、浜松出身となっています。小生もそのように思っていましたが、実は東京都大田区の生まれ。私生児として育てられ、母の嫁ぎ先となった浜松の小野家へ引き取られたということ。市内の竜禅寺小学校を卒業し、父親の仕事で大阪へ。映画俳優にあこがれていた浩二少年は、高田幸吉劇団に入団。15歳の時には、白虎隊役で映画撮影に。ところが病気にかかり降板。
大学時代に学徒動員により、第一期海軍飛行科予備生徒として横須賀海軍航空隊に入団。特攻隊として帰らぬ友もたくさんいたという。その思いは、戦後、海外での戦跡での遺骨収集に莫大な寄付をしたことでも知られる。歌手として「予科練の唄」や「特別攻撃隊」などの軍歌を、そうしたことを脳裏に思い浮かべながら歌ったのであろう。
さて、当ビューローの小野副理事長(サゴーエンタープライズ会長)にお会いしたとき、おそるおそる聞いてみました。「鶴田浩二のことでご存知ありませんか」。「ああ、うちのおやじが映画館の仕事もやっていてね、彼はそこで働いていたことがあった」というではありませんか。ただし、同じ小野姓ではあるが、親戚関係ではないということです。
これを期に、末娘の鶴田さやかが書いた「父・鶴田浩二の影法師」(マガジンハウス刊)を読みました。興味深いのは、夕焼けが嫌いだったという。ほとんどの子がお母さんが「夕飯だよ」と呼びにきてくれるが、彼は一人寂しく家路につくしかなかった、と。彼の影の部分を象徴しているといえるでしょう。若い時の写真を見ますと、やはり当世一代の男前だったと思います。