浜松が「ものづくり J のまちになぜ特化できたのかを考えてみたい。「やらまいか精神」だけではなしえない、正の経済循環がそこにはある。
ひとつは鉄道院浜松工場 (現JR 浜松工場)の誘致に成功したこと。名古屋と浜松が候補にあがり、戒厳下の中、当時の町長・鶴見信平を筆頭に150人あまりの陳情団が東京に集結。この動きを察知していた首相官邸には200人以上の刑事たちが警備していたというエピソードも…。
創業は大正元年(1912年) の11月のこと。この鉄道院工場には全国から優秀な技師が集まってきたのだ。庄田鉄工を創業した庄田和作さんもそのひとり。
同工場は、現在、新幹線車輸の専門工場となっている。
旧浜松高等工業学校 (現在の静岡大学工学部)の存在も大きい。大正 12 年 4 月に、浜松沢 (現在の広沢一丁目) に開校した。当時、政府は科学振興を目的に、高等工業学校を全国に 10 校程度設立することを定めた。全国各地での誘致合戦となったが、結局、技術水準が高い浜松がそのひとつに選ばれた。テレビの発明で知られる高柳健次郎もこの学び舎で教鞭をとっていた。彼の教えを受けるため、堀内平八郎は信州から浜松へ。彼は卒業後、現在の浜松ホトニクスをこの地で創業し、小柴東大名誉教授のノーベル賞授賞を支えた。
浜松の産業界へは静大工学部の卒業生たちが就職し、それぞれの企業現場で活躍したことはいうまでもない。
三方原に飛行第七連隊が設置されたのが大正 14年 (1925年)のこと。実はこれを遡ること6 年、大正8年にフランスから航空技術団が日本へ指導にきた。そして選ばれたのが三方原台地であった。その数47人、ベテランの技術者ばかりであったという。訓練の模様を視察するため、VIPもたくさん浜松を訪れたという。その中には東郷平八郎海軍大将も含まれる。
ちなみに同じ年、浜松出身の福長浅雄が天竜川の河原に飛行機研究所を設立。そしてここから国産初の旅客機「天竜第10号」が完成した。6 人乗りであった。
こうしてみると、技術の集積や東京と大阪の中聞という地の利、人の魅力などによって、浜松がものづくりに特化していったことがわかる。人、もの、金、情報、こうしたものづくりのための経営資源をすべて満たしていたのだ。それが鉄道院浜松工場や浜松高等工業学校の誘致などにより、さらによい循環を形成していった。