「Welcome to 浜松」というイベントを4月22日に開催しました。浜松へ新たに赴任してきた方々への浜松のホット情報の提供と交流を目的としたもので、今年で2回目。公務の忙しい中、鈴木浜松市長も駆けつけていただきました。
私が今年も担当したプレゼンテーションは、「家康ミニ講座」。演出上、ちょんまげのカツラまで用意し、25分のつもりが10分以上の時間超過という熱演(?)なってしまいました。私が家康について強調したいのは、次の点です。
□ 三方が原の戦の後「おしかみ像」を描かせた家康の性格正妻と長男を殺さざるを得なかった家康の苦悩。
□ 家康のDNAが400年続き、浜松が「ものづくりのまち」になったこと。
□ 正妻と長男を殺さざるを得なかったこと。
□ 家康が秀吉と比べて、なぜ人気がないのか。
これらのストーリ-によって、家康をもっともっと観光資源として活用できるのです。ちなみにNHKの大河ドラマ「篤姫」も好評放映中です。将軍・家定に腰入れする日が近づいています。ここで問題です。江戸幕府は初代の家康から15代将軍・慶喜まで15人ですが、このうち正室が産んだ子が後に将軍になったのは何人でしょうか?
正解は1人だけ、3代将軍の家光です。ですから世継ぎのために側室が必要なわけで、かの「大奥」もそうした立派な存在理由がある。ところで、家光の父は第2代将軍の秀忠で、彼は浜松城下で生まれました。クリエート浜松に近接して、「秀忠誕生の井戸」跡があります。
もうひとつ興味ある話。家康は浜松の地で「天下取り」の機をうかがっていた。そして幕末、この家康を始祖とする徳川幕府を最後まで守ろうと戦った人たちがいる。「新撰組」だ。函館五稜郭の戦いにも生き残った隊士・中嶋 登(のぼり)。彼は、維新後、浜松で鉄砲商を営んでいた。十数年くらい前までは、その子孫が生業としていたのです。家康が築いた出世城の地へ、300年の歳月を経て、中嶋は流れ着いた。これも何かの因縁を感じます。