浜松には約2万人近くのブラジル人が働き、生活しています。1990年の「入管法(=出入国管理及び難民認定法)」改正により、日系人については合法的な就労が可能になったことに起因します。この数は全国の都市の中でもっとも多く、さしずめリトル・サンパウロといった様相を呈しています。
1908年に、日本からブラジルへの移民が始まりました。笠戸丸という移民船で52日間の航海、その当事、パナマ運河は開通していないのでインド洋回り。平野運平は東京外国語大学でスペイン語を専攻し、旧天竜市の平野家に養子に入る。通訳募集の報に大学を中退し、通訳5人衆の一人としてシベリア経由で先乗りします。
「2、3年後に、故郷へ錦を飾る」という移民たちが抱いた夢は、耕作地にはいって崩れさります。あまりにも過酷な労働、自然の脅威。平野は自作農になるしか道がないと、平野植民地を設立し、移民たちを入植させます。そこは湿潤地で水稲もできたのですが、マラリアの巣窟でもあった。毎日のように病死者が出る、平野は多額の借金をし薬を買い求め、入植者に飲ませます。彼自身の身体も病に冒され、34歳という若さでブラジルの大地に永眠。北杜夫の「輝ける碧き空の下で」に詳述されていますので一読を。
現在も平野植民地は存在し、彼はブラジル移民の礎を築いた恩人として尊敬される人物です。平成10年、運平の位牌が百年近くの歳月を経て里帰りして、二俣町の清滝寺に安置され供養祭が営まれました。天竜地区の光明山の山頂に、その功績をたたえ地元有志が平野の記念碑を建立しています。
ブラジル移民の父ともいうべき平野のゆかりの地に、ブラジル人が一番多く住むまち浜松。何か運命的なものを感じます。「酒にも人にも酔いたい」をモットーとする筆者としては、ピンガ(サトウキビから作られる酒)を愛飲した平野運平の碑に、いつの日にかピンガを捧げたい。
日本には現在約30万人の日系ブラジル人が住んでいます。浜松にお越しの際には、光明山にお出かけください。また、移民史に興味のある方は、石川達三の「蒼氓」(第1回芥川賞受賞作)をお読みいただけると、ブラジル移民のことをさらに深く知ることができます。
なお、この週刊ブログの投稿を今月から月1回程度、スタッフの中からピンチヒッターを立てます。初回は、名門K中学の野球部だったというT部長になるかと…。乞う、ご期待!